今回インタビューをさせていただいたのは、竹のことを話していると自然と笑顔がこぼれる石山好美さん。最近の趣味は雅楽の笙(しょう)と呼ばれる楽器を練習し、先日は地元の祭典で演奏もしたとのこと。竹工品を作る際は、人の求めるさらに1歩上の質の高い商品を作ろうと心がけているそうで、それは石山さんの手さばきを見るとよくわかる。そんな石山さんにこれまでのこと、これからのことを伺った。
- —屋号でもある「竹星」の由来は?
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元々所属していたフットサルチームの名前です。京都にある竹屋・長岡銘竹株式会社で修行をしている際に代表の真下さんと竹屋さんで構成されるフットサルチームを作って、そのチーム名が「バンブースター」って言うんです。実は私、チームや団体で何かをするということが苦手であまりそのようなチームに所属してきませんでした。ですが、所属してみると学ぶことは多く、チームの作り方、協調性、経費の使い方など、今後の商売にもつながるのではないかと思わせてくれました。私にとっては原点のような存在なのでこの名前をいただき、今もすごく気に入っています。
- —元々、竹工芸に興味を持ち始めたきっかけは何だったのでしょうか?
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明確なきっかけはないんですけど、昔から竹と触れ合う機会がなぜか多かったんですよね。例えば、地域のお囃子をする際に篠笛を練習したことや、実家にある竹垣だったり、漠然と私もこういうモノを作ってみたいなという風に思い始めました。篠笛を教えてもらっていたおばちゃんは正月に飾るしめ縄を自分で作っていて、当たり前に見ていたものを自分で作るということを想像した時にすごいなと思い、私も自分で作ってみたいという気持ちになりました。
元々、モノを作るのが好きだったんですよね。手で何かを作るということと、その自分で作ったものを見て触って、使って人が喜ぶっていうのが好きなんです。
- —進路はどのように進まれたんですか?
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高校時代を千葉県で過ごしてその後2年くらいバイトして、京都の工芸専門学校に行きました。元々千葉県が好きだったので最初から帰ってこようと思っていましたし、京都にずっと住もうといった気持ちはなかったですね。
そして専門学校を卒業したのちに、長岡銘竹株式会社に入社しました。そこの社長が専門学校の社長で入社をお願いしに行った時には「仕事がないから」という理由で断られたんですけど、京都の竹屋さんの中でも竹垣を多く制作していることを知り、何度かトライして、入社をさせてもらいました。初めての上司になったのも真下さんで、非常に頼りがいのある先輩でした。真下さんは能動的に動くことができる人なので、常にその状況に合ったベストな道を選んでくれました。今思い返すと、初めての上司が真下さんで良かったなぁとしみじみ思います。
- —専門学校卒業後に長岡銘竹で7年程働かれたと思うんですが、その7年間の印象に残っている思い出はございますか?
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やはり、火事で工房が全焼したことですかね。私が働き始めて3年目のクリスマスイブに火事がありました。そこから4年間京都で働く中で様々なことを学びました。
- —具体的にどのようなことを学ばれましたか?
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真下さんがよくおっしゃっていた、「すべてを受け止めて前へ」という言葉が一番胸に刻まれていますね。プロレスラーの棚橋弘至の言葉なんですけど、ことあるごとにこの言葉を言っていたので刷り込まれています(笑) 遠くの現場で泊まり込みの時とかは、地方のプロレスとか一緒に見に行ったりしましたね。 それこそ、火事で焼けてしまったというその状況を受け止めなきゃいけないじゃないですか。これまでに起こったちょっとしたことであれば、「受け止める」ことも自分1人の力で何とかなってきたんですけど、自然災害はさすがに自分1人では何もできないことを感じて、毎日のように聞いていたこの言葉改めてグッと胸に刺さりましたね。
- ―とても大変な修行時代でしたね。火事になったタイミングでやめようとか、他の仕事しようかなという風には思いませんでしたか?
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本当は元々千葉に帰ろうかと思っていた時期だったんですけど、会社全体が大変な事になっていたため、中々辞めるといえなくて、他の仕事をしようとも思っていなかったですね。(笑)とりあえず必死に働かなきゃと思っていました。でもネガティブな事だけじゃなくて、この期間のおかげで、真下さんとも多く話すことができて、会社の経営に関しても誰より近くで見ることができて非常に光栄です。
- ―その後どのような流れで独立されたのですか?
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京都で7年間就業した後、千葉にて房州うちわの作り方を習いに行きました。千葉県に竹屋さんがあったらそこで働きたいと思っていましたが、千葉県の竹屋さんって竹材屋さんで、海苔を養殖するにあたっての竹材を販売するようなところばかりで、工芸品を作る工房はありませんでした。その上、習っていく中で後継者不足ということにも目の当たりにし、同じ竹を使う工芸品ということで房州うちわの職人になりました。
- ―働き方は師弟関係といった感じですか?
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そうですね、お金が発生するわけでもなくて、ただ通って習いに行っていたという感じでした。その時は漠然と独立しようかなぁって感じだったんですけど、当時同じ地域に住んでいた鳶をしている先輩がいて、私が食べられない間は仕事の手伝いをやらせてくれたりしていました。最初から「うちわをどんどん売って稼いでいくぞ」という感じではなかったです。すぐに売れるようなものではないことを知っていましたし、その間は別の仕事をしてスキルを磨いていました。
- ―うちわを作っていて、楽しいなと思う瞬間ってどういったところになりますか。
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やっぱり完成した時と、お客様が買ってくれる時が楽しいですね。商品を催事の場で実演するんですけど、その際のコミュニケーションは楽しいですし、今後の商品を考えていくうえでの勉強になります。
- ―石山さんにとってうちわの魅力はどこですか?
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風の質が優しくて、実用性にものすごく長けていることです。女竹(めだけ)って女の竹って書くだけあって、粘りのあるしなりを持ち合わせています。体にもいいのではないかと思っています。冷えすぎないので、ご年配の方々には非常に喜ばれます。仰いでいたら、重くて暑くなってくることもあると思うんですけど、軽いので全然楽なんですよね。
- ―今後、日本伝統工芸業界に入ってくる若手に対して一言お願いします。
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偉そうなことは言えないですけど。職人とか作家とかの肩書に拘らず好きなことをすればいいと思います。私自身伝統的工芸品を作ってはいるんですけど、昔からの職人さんって、卸売りとかもやっているので、それらを「工芸」かと言われると「民芸」じゃないのかと思ったり、その区別って難しいと思うんですよね。周りの方々からすると、私は作家みたいだろうし、その定義って特にないんで、あまり凝り固まらずに、やりたいことをやることが一番心が豊かになると思います。
- ―竹星のご展望を教えてください!
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個人的には海外に行きたいなと思っています。千葉県には成田空港があるので、そういったところで実演販売をしたいと思っています。もっともっと国籍、性別問わずうちわの良さ知ってもらいたいです。ヨーロッパはパリに行ってみたいですね。ルーブル美術館に作品が置かれるとかか考えると胸が躍りますね(笑)
インタビューを終えて
午前8時に工房にお伺いをし、竹伐からうちわが完成するまでの工程をご撮影させていただいた後のインタビューにも関わらず、終始笑顔で対応をしてくれた石山さん。竹工品に対する想いは人1倍熱く、休みの日もずっと竹のことを考えて、新しい何かを製作し続けているそう。一つの道でやりきると覚悟を決めた人とお話はやはり石山さんの最初の上司真下さんと通づるところ感じることができました。「すべてを受け止めて前へ」。改めていい言葉だなと感じた日でした。
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