【西陣織職人】福岡裕典さんにインタビュー

 織物だけでなく湖の浄化、カバンの制作など様々な領域に活躍の場を広げるフクオカ機業。京都府上京区の住宅街に佇む工場で、4代目伝統工芸士の福岡裕典さんに話を聞いた

—小さいころからのご経歴を教えてください。

昭和45年4月に西陣で生まれました。地元の学校に高校まで通った根っからの京都人です。やりたいことは色々ありましたが胸の内に封印し、平成元年、19歳でフクオカ機業に就職しました。

—就職後はどのような時間を過ごしましたか? 

先輩が厳しかったですね。「仕事というのは、先輩の仕事を見て覚えろ」と言われました。初めは壁にぶつかりましたが、自分なりに仕事に対し真摯に向き合いました。一生懸命仕事に取り組みましたが、平成2年にバブルがはじけ、仕事が減り、今までやってきたことが、何もかも変わってしまいました。正直、何をしていいか分からなかったです。平成10年、29歳で代表になり、継がないといけないわけではなかったのですが、明治35年から続く伝統を守る選択をしました。

—趣味はありますか?

昔はゴルフが好きだったんですけど、今は時間が無くて…。今は半分仕事が趣味みたいなところがあります。何より、仕事をするのが楽しいです!

お仕事が楽しいことはいい事ですよね!現代の流行と職人さんの意向が合わなかったりすることもあると思われますが、こだわりは何かありますか?

織物の仕事は続けたいです。残したいものはたくさんあり、このモノづくりを残すためには、新しいことに取り組まなきゃいけないと考えています。

具体的にどのような活動をされましたか?

阪神淡路大震災が起こった際にカーボンファイバーを使って建物の補修工事をしており、そのようなところに西陣織の技術が使えないかと考えました。

実際にカーボンファイバーの織物の開発をしてみましたが試行錯誤の日々が続きました。やっとの思いで平成15年に完成しましたが、その時にはもう補修工事に関しての需要が減っていました。

何か違う取り組みをしようと考え、新しい取り組みとして群馬で湖をきれいにするプロジェクトに参加しました。
その地域はワカサギがよく取れ、ワカサギで地元産業が成り立っていたんです。しかし、ある時期からワカサギが取れなくなったため、カーボンファイバーを使い、水をきれいにする事にチャレンジしました。結果的には成功し、ワカサギが取れるようになりました。
地元産業は復活したように思えましたが、1つの問題が生まれました。カーボンファイバーは海や川だと流れで切れてしまうという事です。
このことを知って自身の織物を持っていき、強度の強さを証明しました。その後、全国の川や海の浄化に取り組み、活躍の場を広げました。

―そのようなところにも西陣織の技術が使われていたんですね!今後、西陣織をどのような形で残していきたいと考えていますか?

新しい技術や文化との融合に対し抵抗はないです。これをすることによって、本来の織物を残していきたいです。西陣織の様々な色合いや技術が、色々なものとコラボすることで、西陣織りの偉大さを日本だけでなく世界中に知ってほしいです。

YouTubeで西陣織の製造工程をご覧いただけます!

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!